ふとした贈り物ができる人。そういう大人になりたい。
- Kanesue Kitchen

- 2025年7月14日
- 読了時間: 4分
感情の数だけ、贈り物はあると思います。
お中元の季節ですね。
お世話になった方への御礼の品として、気持ちのこもった贈り物は、今でも確かにあるかと思います。
でも、そのお中元の中には、ただただ習慣的に送られるモノもあるように思えます。
そういう慣例的な贈り物とは違い、「ありがとう」や「初めまして」、「この前は助かりました」など、私たちの日常には、人と人が接する限り、その間には「感情」という空気が、グラデーションのように横たわっています。

当然、感情ですから怒る、悲しむ、落ち込む、などネガティブなシーンもあります。
さらに言えば、なんとなく口を利きたくない。なんとなく一人でいたい、などモヤモヤとした感情もありますね。
つまり、感情を抜きにしては、生活できないと言っても良いくらいです。
また、特別な贈り物でなくても、例えば、ちょっと遠出した時に、自分の街では見たことがない、地元ならではの美味しそうな「ハチミツ羊羹」を見つけたとします。
それを見て「そういえば、勤め先の先輩にこの前、色々指導してもらったし、確か小さいお子さんもいたと思うので、この羊羹買っていこう」とプチ感謝的な贈り物もあるかと思います。
こういう細やかで思いやりのある精神性は、日本人ならではの振る舞いだと思います。
しかし、最近はこんな配慮は、物価高の不景気のせいか、どこかに置き忘れられているようです。
儲かりそうだから贈る。
仕事が欲しいから贈る。
営業的な色が濃くなりすぎている気がしてなりません。
形骸化していく日本人の精神性
先日、知り合いから聞いた話なのですが、中国の富裕層では、国の思想的な違いは置いといて、憧れの女性像はなんと日本の女性だとか。
つまり、経済的には裕福になり、ブランドものに囲まれた生活をしているのだけど、どうしても私たちには着こなせない、というのです。
ブランド物を自然に着こなせる日本人の精神性を身につけなければ、本当の意味での大人の国としては、世界からは認めてもらえない、ということなのでしょう。
そんな隣国の事情とは打って変わって、私たちの日本には隣国が羨むような精神性がどれほど残っているというのでしょうか。
例えば、贈り物と言えば「熨斗」を思い浮かべる方も多いかと思いますが、この真ん中の黄色の部分が意味する事を知っている人はどれくらいいるのでしょうか。

これは、鮑をモチーフにしているのです。
少し歴史を語ります。
「日本書紀」に記されているのが起源のようです。
天照大神の命によって倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が伊勢に御鎮座を終えたのちに、志摩の国崎で海女から差し出された鮑にたいそう感動し、伊勢神宮への献上を求められたそうです。
しかし、生のまま献上しては腐ってしまうので、乾燥させて献上したようです。
以後、現在に至るまで約2000年、三重県鳥羽市の国崎町では、鮑を乾燥させて「熨斗鮑」をつくり、年に数回伊勢神宮に奉納しています。
この熨斗鮑が贈答品に添えられるようになったのは江戸時代になってからのようです。
現在よく見られる「折熨斗」のスタイル。
赤と白の和紙で包み、水引で止め結ぶカタチですね。
全盛期は明治大正時代。
様々なデザインの折熨斗があったようですが、大東亜戦争後のいわゆるGHQの神道指令の影響で、熨斗は天皇崇拝に繋がるとして排除されてしまいました。
それでも、たとえコンビニや100均で買える祝儀袋でも辛うじて印刷はされています。
気持ちをカタチにする日本人の精神性は、そう簡単には滅びるものではないと信じます。
見返りを求めない贈り物。
そういう大人になりたい。

買い物とは、お金と引き換えに商品をもらいます。
つまり、交換なのですが、贈り物の場合は、送り手の感情の一方通行になります。
見返りを求めることを前提としていません。
ちょっとしたこと。ふとした瞬間に思う事。さりげなく流れていく人との交流。または、遠くにいる大切な人のことが思い出されるとき。
ああ、そういえば今頃どうしているのだろう、と思う時間。
そんな時間をカタチにする大切さ。
贈るモノも大切ですが、それ以上に贈るコトを大切にする大人。
わたしも、そんな大人になりたいなと思います。






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